愛三工業の歴史

愛三工業は1938年設立。藤田製作所、豊田自動織機(しょっき)、平田紡績の3社によって発足した。 中でも中心となったのは、紡織機部品を製造していた藤田製作所だった。このほか、豊田利三郎、豊田喜一郎らも個人として出資した。

トヨタが筆頭、デンソーが2位の株主

デンソーが2007年、愛三工業への株式公開買い付け(TOB)に成功し、株式の10%を取得した。 豊田自動織機などが応募した。買収総額は74億2500万円だった。この結果、デンソーがトヨタ自動車に次ぐ第2位の株主となり、豊田自動織機の保有比率は8.61%になった。

社長の定年は65歳

愛三工業の社長は、トヨタグループの内規により、65歳が定年となっている。


歴代社長の名前、実績、評価など

名前 就任年 前任社長の処遇
野村得之
(のむら・とくひさ)

野村得之
2018年6月~
現在
【就任】57歳で就任。副社長からの昇格。9年ぶりの社長交代。小林社長は退任。

【経歴】トヨタ自動車出身。トヨタでは主に電子技術の開発畑を歩んだ。主力開発拠点であるトヨタ東富士研究所(静岡県裾野市)の所長も務めた。

電子制御技術などの研究開発を強化する中、トヨタで長らく電子技術の開発に携わった野村氏をトップに据えて開発を加速することになった。

1985年(昭和60年)豊橋技術科学大院(電気・電子工学専攻修士)修了、1985年トヨタ自動車入社。電子技術領域長や車両電子設計部長などを歴任した。2013年トヨタ常務理事。

2017年愛三工業副社長。1960年生まれ。神戸市出身。

【実績】就任時には、社内に電気電子系の技術があまりない状況だった。技術を習得させようと、エンジンと電動モーターで動くドローンのハイブリッドシステムを組むように、課題を与えた。 2021年1月には組織改編し、『電動システム開発部』を発足した。技術を習得できたため、その技術を使ったシステムの提案を自動車メーカーに始めた。

トヨタ自動車が2020年12月に発売したFCV(燃料電池車)の新型「ミライ」に製品が採用さた。燃料電池に水素を送り込む、水素燃料噴射システムも採用された部品の1つだった。 従来のアルミの鋳造技術では、分子が小さく、漏れやすい水素を完全に閉じ込めるのは厳しいという課題があった。 そこで、新しい工法を開発し、水素も閉じ込められるように、耐圧性や気密性を高めることができた。

工場の二酸化炭素(CO2)フリーにも取り組んだ。2021年1月にプラントエンジニアリング環境部を立ち上げた。
小林信雄
(こばやし・のぶお)

小林信雄
2009年6月~
2018年6月
【就任】56歳で就任。10歳ほど若返った。

【経歴】トヨタ自動車出身。1978年4月トヨタ自動車に入社。トヨタ東富士研究所(静岡県)に11年間在籍した。そこで取り組んでいたのは車両の空力研究だった。愛三の主力製品のエンジン部品は専門外だった。

2005年6月、トヨタ常務。 2008年から愛三工業の副社長。愛知県出身。大阪大学大学院。

【就任当時の経営状況・経営環境】就任前の2009年3月期連結決算で税引き後利益が34億円の赤字に転落した。社長就任時は「生産能力の6割操業でも利益が出る態勢づくり」を課題に挙げた。設備投資の大幅な削減や子会社の事務部門の統合のほか、納入先の自動車メーカーの協力を得て、部品の種類を3年内に半減する方針も明らかにした。

【実績】海外展開や生産改革などを推進。2017年にはインド企業との合弁会社設立も決定。成長への基盤固めを進めた。

2016年末からは設計や調達、生産技術の関係を抜本的に見直し、従来の半分程度の価格で部品が作れるように改革を進めた。
加藤由人
(かとう・よしと)

加藤由人
2005年6月~
2009年6月
【就任】61歳で就任。副社長からの昇格。小西正巳会長(当時70歳)と鬼木徹也社長(当時65歳)は顧問に。鬼木社長がトヨタグループの内規の定年年齢に達したため、交代となった。

【経歴】トヨタ自動車出身。京大大学院修了。1969年トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)。

生産技術の担当が長かった。1980年代初頭にはロボット開発にかかわるなど生産現場の自動化に貢献した。

トヨタの取締役、常務を経て、2003年6月から愛三工業副社長。名古屋市出身。

【就任当時の経営状況・経営環境】燃料電池など次世代技術の開発で自動車の動力源は大きく変わろうとしていた。社長就任時との問題意識を示した。

【就任時の抱負】「現場力を徹底的に強化したい。国内では、相次ぐ増産や労働力の外部委託などにより、現場にゆるみが生じている部分もある。品質や原価についてもう一度、1から見直している。購入部品や材料を投入して製品としてどれだけ販売したか。どれだけ在庫が発生したか。これを日々管理して自分たちの生産効率が世界でどのレベルにあるのかを自覚できるようにしたい」

「2007年にエンジン部品のスロットルボディーなど主要3製品で世界シェア(市場占有率)トップを目指す活動を続けているが、うち2製品で目標は達成できるめどがついた。2015年には、世界トップの製品を10品目に拡大したい。だが、現在の売上高の伸びは、主要取引先のトヨタ自動車や韓国の現代自動車の好調ぶりに助けられている部分があり、まだ物足りない。海外の新規顧客開拓に加え、他社と差別化できる商品をどう開発するかなど、さらに努力することが必要だと考えている」

【実績:熊本に工場】熊本県玉名市に工場を建設した。愛知県外で初めての国内工場だった。鉄骨平屋約4300平方メートルの工場で、主に燃料関連の部品を製造し、トヨタ自動車九州やダイハツ九州などに供給。 当初の計画では、九州の自動車メーカー各社の生産規模拡大を受け、2010年1月に操業開始し、2年後には売上高50億円を確保する予定だった。しかし、リーマンショック(2008年)に伴う急速な景気減速でメーカーの減産が予想されることから、予定していた約10億円の投資を絞り込んだ。
鬼木徹也
(おにき・てつや)

鬼木徹也
2003年6月~
2005年6月
【就任】63歳で就任。生え抜き。専務から昇格。小西正巳社長が会長に。伊東博巳会長は相談役に就任した。

【経歴】1963年愛三工業入社のプロパー。技術部門を歩いだ。入社4年目の1966年に発売された初代のトヨタ「カローラ」の設計変更。発売の数カ月前に「排気量を1リットルから1.1リットルに増やす」と通告された。ライバルの日産サニー(排気量:1リットル)への対抗策だ。愛三工業はキャブレターの担当だが、図面を1から引き直す突貫作業で納期を守った。

国際派。欧州の市場開拓で実績を挙げた。1988年秋、初代の欧州事務所長に就任した。独デュッセルドルフの事務所に赴任したものの、意中のメーカーとの商談は不調に終わった。しかし、イタリアの大手、フィアットに回り、品質の良さを粘り強く説明して気化器(キャブレター)の納入にこぎつけた。

1999年6月に専務に就任。熊本県出身。千葉工大卒。同大の学生時代に、車の構造を研究する自動車部に入った縁で、自動車関係のメーカーに就職した。

【就任当時の経営状況・経営環境】主力のエンジン部品分野では、排ガスのクリーン化や燃費向上など、環境関連のレベルアップが課題。究極のエコカーである燃料電池車の普及に向けた開発競争にも拍車が掛かっていた。 売上高の7割はトヨタ自動車向けだった。

【実績:世界シェア拡大への活動】主力製品であるエンジン部品のスロットルボディーや燃料ポンプ、排ガスを制御するキャニスターの3部品を2005年までに、世界シェア(市場占有率)ナンバーワンに育てたいと考えた。 そのために、製品の企画から生産、販売までを一貫してみられるように、製品ごとに担当の役員を配置した。さらに、2007年のライバル社の製品コストを予測して、それより安い製品づくりを目指す独自の「世界ナンバーワン活動」も実施した。

【実績:中国での生産体制強化】2003年、中国・天津市に現地法人「愛三(天津)汽車部件有限公司」を設立。新工場建設に着手した。 中国での現地生産を急速に拡大するトヨタの動きに対応したものだった。

新会社は天津市内の天津空港物流加工区で取得した敷地(10万平方メートル)内に設立。資本金は9450万人民元(約13億7000万円)で、愛三工業が95%、豊田通商が5%出資。 工場は建屋面積6000平方メートル。エンジン部品のスロットルボデー、キャニスタなどを生産。

トヨタは天津で第2工場を新設、2004年に「カローラ」、2005年に「クラウン」の生産にも着手するなど中国戦略を強化していた。これに呼応し、愛三工業も新会社設立に踏み切った。
小西正巳
(こにし・まさみ)

小西正巳
1999年6月~
2003年6月
【就任】62歳で就任。トヨタ系の富士通テン(神戸市)会長からの転籍。伊東博巳社長(当時66歳)は会長に。トヨタの豊田章一郎会長と奥田碩社長

【経歴】トヨタ出身。エンジン開発の専門家。1961年トヨタ自動車入社。トヨタ自動車取締役。1994年9月に愛三工業常務。1996年6月に富士通テンに移り会長。広島県出身。京都大学の大学院(工学研究科)修了。

【就任当時の経営状況・経営環境】日本国内ではエンジンバルブやキャブレターなどが1位のシェア(市場占有率)を誇っていたが、こうした自社製品の世界的なシェアをいかに高めていけるかが課題となっていた。

【実績:欧州での生産開始】トヨタ自動車のフランス工場が2001年から操業を始めるのに合わせ、欧州進出に取り組んだ。 2000年、イタリアの家電・自動車部品メーカー、ビトロン社と合弁会社を設立し、フランスとチェコで燃料ポンプの生産を行うことを決めた。 チェコで燃料ポンプ本体を生産、フランスで周辺部品と組み合わせたポンプ・モジュールとして生産。愛三工業としては初の欧州生産拠点となった。

フランスでの合弁会社の名称はアイサン・ビトロン・ヨーロッパ。本社、工場はパリ南方のニベール市にあるビトロンの拠点を活用した。資本金は約21億円で、愛三工業が67%、ビトロンが33%を出資した。 一方、チェコではプラハの北のローニー市に、合弁会社の100%子会社としてアイサン・ビトロン・チェコを設立。資本金は約14億円。5000平方メートルの工場を新設した。
伊東博巳

(いとう・ひろみ)

伊東博巳
1989年6月~
1999年6月
【就任】56歳で就任。初代社長を除くと、初めての生え抜き(プロパー)社長。専務からの昇格。高橋弘社長(当時63歳)は会長に。小林忠夫会長(当時70歳)は顧問に。

【経歴】愛知県刈谷市出身。1955年(昭和30年)愛三工業入社。営業畑一筋で、だれにでも気軽に会い人の気をそらさないのが持ち味だった。 1972年取締役、1982年常務、1985年6月から専務。立命館大卒。

親会社であるトヨタ自動車の出身者が歴代、占めてきた社長のいすに、生え抜きとして初めて座った。

兄の章郎氏は、デンソー(当時:日本電装)の常務だった。父・利郎氏も、豊田工機で常務を務めた。つまりトヨタ一家だった。

【就任当時の経営状況・経営環境】主力商品の自動車用キャブレターが第2次石油ショック以降、省エネムードや、排ガス規制強化のうねりの中で電子制御式燃料噴射装置(EFI)の登場に押され、売り上げが伸び悩んでいた。燃料系部品は、遅まきながらEFI関連部品へ切り替えるため、新工場の建設を進めていた。国内では豊田市西広瀬に3番目の工場を1989年7月に着工。米国ケンタッキー州でも初の海外生産拠点を計画していた。

【実績:日産への部品供給】1995年4月から、日産系商社を通じて日産自動車にブレーキ用のバキュームポンプの納入を始めた。1996年からは、燃料供給装置用バルブを日産自動車に直接納入した。

完成車と部品メーカー双方が収益の悪化に苦しむ中で、系列を越えた取引で効率的な経営を目指す動きだった。トヨタが海外生産を加速させているため、少しでも国内向けの売り上げを増やす狙いもあった。

【実績:取引先の中小メーカーを支援】1994年4月、社内に仕入れ元支援のための特別チームを発足させた。 生産管理部門を中心とする18人のスタッフが、愛知、岐阜、三重の三県にある取引先中小部品メーカー23社を巡回。コストダウンの手法や財務体質見直しなどを直接アドバイスした。 取引先メーカーも含めた企業体質の強化によって、円高に伴う国際競争力の低化を防ぐのが狙いだった。

巡回の対象となった23社は従業員が100人未満から400人程度の中小企業。直接資本関係のない企業が大半だったが、協力会組織「愛協会」をつくり、愛三工業とは関係が深かった。 製品構成の変化などから全仕入れに占める比率はピーク時の80%から45%まで落ち込んでいた。伊東社長は、この比率を引き上げたいと考えた。中小メーカーの安定的な供給ルートの確保に取り組んだ。

【実績:中国での生産開始】1996年、中国・天津市の自動車メーカー、天津汽車工業総公司傘下の部品メーカー、天津化油器と合弁会社を設立した。 会社名は「天津愛三汽車附件有限公司」。資本金は約8億5000万円で、愛三が約70%、残りを天津側が出資した。 日本の役員会に当たる董事会のトップ(董事長)は安岡正尚専務が就任した。 社長に当たる総経理も愛三側から出した。

合弁会社では、キャブレター(気化器)の現地生産を開始した。キャブレターはエンジンの基幹部品。合弁生産は中国政府の認可が必要な重要部品の1つだった。 天津側の既存工場を利用し、天津汽車がダイハツ工業の技術援助を受け生産する小型乗用車「シャレード」向けを中心に当面、キャブレターを生産した。 トヨタグループの部品メーカーがこうした重要部品を手掛けるのは初めてだった。トヨタが天津汽車との間で進める乗用車合弁生産計画に弾みをつけることになった。

【実績:米国工場の増強】 1998年、米国ケンタッキー州にある愛三工業米国工場の拡張工事に着手した。トヨタ自動車米国工場の増産計画に対応するためだった。

【実績:役員間のコミュニケーションの円滑化】役員間の円滑なコミュニケーションを心がけた。毎朝30分間、常務以上全員が顔をそろえ、お茶を飲み、新聞を読みながら、という自由な雰囲気で情報交換することにした。
高橋弘
(たかはし・ひろし)

高橋弘
1985年6月~
1989年6月
【就任】60歳で就任。

【経歴】トヨタ出身。

【実績】就任後間もなく、プラザ合意により急激な円高に見舞われた。 これを受けて1986年4月、緊急円高対応策として、改善項目別組織を強化して、原価改善活動の推進を図った。 また1986年6月、アメリカ・フォード社に対しキャプレタのOEM納入を開始。愛三工業がかねてから念願した米国ビッグ3への量産品納入を実現した。 1987年度には懸命な合理化努力によって大幅な増収増益を達成。円高不況を乗り越えた。

さらに、米国で現地生産を始めることを決断した(1989年5月)。トヨタ自動車の米国工場があるケンタッキー州ジョージタウンから南西280キロのケンタッキー州フランクリン市近郊に単独進出することになった。

【訃報】2004年3月3日、心筋梗塞(こうそく)のため死去。79歳だった。
小林忠夫
(こばやし・ただお)

小林忠夫
1976年6月~
1985年6月
副社長から昇格。57歳の若さで就任。魚住社長は代表権のある会長になった。 小林社長時代は10年続いた。

オイルショックによるインフレ不況に直面するなか、70%操業でも採算の取れる体質への転換を目指し、 経営革新に取り組んだ。 品質保証活動、原価改善活動などを陣頭指揮した。市場ニーズにマッチした新製品の開発も進めた。 低成長下にもかかわらず、1978年(昭和53年)から毎期連続の増収増益を達成した。

1980年以降、インジェクタをはじめとする電子制御式燃料噴射装置(EFI)の関連製品を開発。量産体制を確立した。 生産技術面でもロボット、NC機、コンピュータ利用による検査装置、CAD/CAM、OA機器などを導入し、電子化を進めた。

1980年(昭和55年)11月に名古屋証券取引所二部に上場を果たした。知名度がアップした。

【訃報】 1999年5月、心不全のため死去。80歳だった。
魚住順蔵
(うおずみ・じゅんぞう)

魚住順蔵
1973年11月~
1976年6月
60歳で就任。 専務からの昇格。
日本で自動車排出ガス規制が厳しくなり、 環境への対応が大きな経営課題となるなか、 新しい開発・生産体制の確立に尽力した。 まず技術研究陣を強化。 さらに、1974年5月に技術2号館を建設し、排出ガスに対応した試験設備を整備した。

第1次オイルショックにより、日本経済は深刻なインフレ不況となり、1975年(昭和50年)には戦後最大規模の倒産旋風が吹き荒れ、低成長時代に入った。

【訃報】1999年12月、大腸がんのため死去した。86歳だった。
松井伊作
(まつもと・いさく)

松井伊作
1965年11月~
1973年11月
専務から昇格。 1957年、常務に就任した。以来、石田社長の右腕だった。 石田氏がトヨタ社長、そして1961年8月からはトヨタ会長としてグループ全体の経営にあたるなかで、 松井氏は愛三工業の実質的な経営責任者として会社を率いていた。

松井社長は就任後、 石田前社長の企業方針を引き継ぎ、品質管理の思想を全面的に取り入れた。 1969年(昭和44年)には新しく制定されたトヨタ品質管理賞に応募し、1年後の1970年(昭和45年)10月に審査を受け、念願のトヨタ品質管理賞優良賞を獲得した。

さらに、日本社会が自家用車(マイカー)時代を迎えたのに伴い、 増産体制の確立に奔走した。 1968年(昭和43年)6月に、本社工場のキャブレタ専門ラインを拡張させ、キャブレタの年産200万台体制の確立を進めた。 当時としては近代的な設備で、1階をキャブレタの機械工場、2階を組付工場とし、キャブレタの機械加工工程から発送までを一連の工程にすることに成功した。工程間の運搬などが合理化された。

1971年(昭和46年)、第2の工場となる「安城工場」が完成した。日本最大の自動車エンジンバルブ工場となった。
石田退三
(いしだ・たいぞう)

石田退三
1953年11月~
1965年11月(2度目)
2度目の社長就任となった。 朝鮮戦争の特需が終わり、その反動で日本経済が陥ったことで、愛三工業も経営が悪化した。 そこで、トヨタ自工の石田社長が、トヨタと愛三の社長を兼務することになった。

もともと石田氏は愛三への愛着が強く、 GHQの兼業禁止が解かれたら、愛三の社長にも復帰したいと考えていたという。 今度は12年間にわたる長期政権となった。

1957年(昭和32年)、愛知県大府町協和(現:大府市協和町)に新工場(共和工場)を建設した。本社もこちらに移転させた。 名古屋市の堀田工場は閉鎖となった。 キャブレタ生産の近代化が進んだ。

1960年(昭和35年)には、トヨタ自動車の本社工場から生産設備を移転し、エンジンバルブの製造を開始した。 これは、1955年(昭和30年)の「クラウン」誕生や、1959年(昭和34年)のトヨタ元町工場完成に連動していた。 その後の爆発的な自動車普及の中で飛躍する基盤となった。
西村小八郎
(にしむら・こはちろう)

西村小八郎
1950年8月~
1953年11月
石田社長が、トヨタ自動車工業の社長に就任したことで、 愛三工業の社長を続けることが難しくなった。 当時日本を支配していた連合軍(GHQ)が、複数企業の社長を兼任することを禁じていたためだった。 そこで、トヨタ自工の常務だった西村氏が3代目社長として後を継いだ。

1950年6月、朝鮮戦争が勃発し、日本は特需に見舞われた。 景気も回復し、愛三工業の業績も急拡大した。
石田退三
(いしだ・たいぞう)

石田退三
1944年3月~
1950年8月
56歳で就任。製造品目が軍需一色となるなかで、 設立母体3社のうち藤田製作所と平田紡績は撤退し、 豊田自動織機が単独で愛三の経営を全面的に担うことになった。 それに伴い、豊田自動織機の常務だった石田氏が、愛三工業の社長を兼務することになった。

石田氏は戦後のトヨタ自動車の「大番頭」であり、今日に至るまで「トヨタ中興の祖」として崇拝されている。

石田氏は1888年の生まれ。繊維問屋勤務を経て、1927年に豊田紡織に入社。1941年にトヨタグループの“総本家”である豊田自動織機の常務になった。

【敗戦と民需への転換】1945年(昭和20年)8月の日本の敗戦により、愛三工業は兵器の生産中止に追い込まれた。工場も一時閉鎖となった。 しかし、豊田自動織機の援助を得て、猛スピードで軍需から民需の脱皮を図った。 1945年9月には、キャブレタを主体とする自動車部品の製造に入った。 戦時中に豊田自動織機が生産していたトヨタ自工向け自動車部品の設備を愛三工業に移設。 人材派遣も受け、キャブレタ以外にもフユーエルポンプなどの自動車部品の生産をスタートさせた。その後、紡織機部品の生産も手がけた。

この激動期における石田社長の経営判断と行動力は、後に称賛された。

戦後の昭和20年代は物資不足により激しいインフレとなり、食糧難も一段と深刻化。日本全体が苦しい時代となった。 この苦境を、愛三工業は従業員たちの努力とチームワークで乗り越えようと奮闘した。

こうしたなか、石田氏は1950年、トヨタ自動車工業(当時)のトップに就任した。 経営危機に伴い、豊田喜一郎社長が人員整理に踏み切った責任を取って退任したため、その後を継いだ。 石田氏は「無駄金は一銭も使うな」「自分の城は自分で守れ」という号令の下、徹底した合理化と財務改善に取り組み、超優良企業としての基盤を築いた。

生前、「安全で乗り心地のいい、いい車を安くつくって、お客さんに喜んでもらう。私が考えて、実行しているのはそれだけなんです。それしかありません」と語っていたという。
藤田辰治郎
(ふじた・たつじろう)

藤田辰治郎
1938年12月~
1944年3月
1938年(昭和13年)12月2日、会社設立。名古屋市に軍需企業として発足した。「てき弾筒」などの兵器製造が主体だった。

会社設立は、日本軍の要請によるものだった。当時の日本は、平和産業から軍需産業への産業構造転換が国策として進められていた。

設立母体は、藤田製作所、豊田自動織機製作所、平田紡績の3社だった。 中でも中心となったのは、紡織機部品を製造していた藤田製作所だった。 豊田利三郎、豊田喜一郎らも個人として出資した。