歴代社長の名前、実績、評価など

名前 就任年 功績・評価・家系など
豊田章男
(とよだ・あきお)

章一郎の長男

豊田章男
2009年6月~
現在
トヨタグループ創始者・豊田佐吉のひ孫。トヨタ自動車の創業者、豊田喜一郎氏の孫。1982~1992年に社長を務めた豊田章一郎氏の息子である。

1984年の入社以来、「将来の社長候補」と言われてきた。2002年常務、2003年専務、2005年副社長。40代でとんとん拍子に昇進した。

2009年6月25日の社長就任会見では、「『産業報国の実を挙ぐべし(良いものを作り、社会に貢献する)』との豊田佐吉の遺訓に立ち返る」と語った。
渡辺捷昭
(わたなべ・かつあき)

豊田家ではない

渡辺捷昭
2005年6月~
2009年6月
グループ一体となった原価低減活動で功績を挙げた。社内で「キレ者」と評された。

【経歴】慶応大経卒、1964年トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)。取締役、常務、専務を経て、2001年6月から副社長。愛知県出身。

渡辺社長の就任とともに、豊田章一郎名誉会長(当時79歳)の長男で「豊田家のプリンス」といわれる豊田章男専務(当時48歳)が副社長に昇格した。 異例のスピード昇進だった。

【就任中の出来事】
  • レクサスの国内販売開始(2005年)
  • 連結営業利益が日本企業初の2兆円を突破(2007年)
  • ロシアで生産開始(同)
  • 国内新車シェアが初めて50%突破(同)
  • グループの世界生産台数が世界一に(同)
  • 2009年3月期連結営業損益が事実上初の赤字になると発表(2008年)
  • グループの世界販売台数世界一が確実に(同)
張富士夫
(ちょう・ふじお)

豊田家ではない

張富士夫
1999年6月~
2005年6月
調整能力で豊田家の信頼を得た。

温厚な性格で、バランス重視の「調整型」とされる。新ブランドのレクサス店導入など国内販売網の見直しなど、改革の手を緩めない攻めの経営姿勢を続けた。

奥田碩会長と2人3脚で積極的な世界展開を推し進めた。タイプの異なる奥田会長とうまくかみ合ったことが、トヨタ躍進を支えた。

【就任中の出来事】
  • 国内生産累計1億台達成(1999年)
  • 日野自動車を子会社化(2001年)
  • 連結営業利益1兆円を突破(2002年)
  • 北米生産累計1000万台達成(同)
  • 連結世界販売台数が600万台を突破(同)
  • 連結純利益が日本企業初の1兆円超え(2004年)
奥田碩
(おくだ・ひろし)

豊田家ではない

奥田碩
1995年8月~
1999年6月
豊田一族以外から28年ぶりに社長となった。 決断力と実行力を豊田章一郎氏に評価された。

豪放らいらくさ、交流の広さで知られた。優れた国際感覚も発揮。 経営のグローバル化を推進した。

「石橋をたたいても渡らない」と言われたトヨタ社の社風に大なたを振るった。世界初の量産ハイブリッド車「プリウス」を売り出すなど攻めの経営にかじを切った。

会長に就任した後は、旧日経連会長を経て日本経団連会長になった。財界の重鎮として大きな影響力を発揮し、トヨタの財界での存在感を一気に高めた。

【就任中の出来事】
  • マリン事業に参入(1996年)
  • 世界初の量産ハイブリッド専用車プリウス発売(1997年)
  • ダイハツ工業を子会社化(1998年)
豊田達郎
(とよだ・たつろう)

章一郎の弟

豊田達郎
1992年9月~
1995年8月
【就任中の出来事】
  • トヨタ自動車北海道が操業開始(1992年)
  • トヨタ自動車九州が操業開始(同)
  • 英国工場が操業開始(同)
  • 年間海外生産100万台達成(1994年)


【就任時の年齢】63歳

前社長・豊田章一郎氏の実弟。創業者・喜一郎の息子。

「堅実」「物静か」。社長就任当初は、“ひ弱”なイメージで語られることが少なくなかった。

しかし実際には、社長就任会見で「豊田という姓であるが故に(社長に)選ばれたという意識は全然ない」と、毅然(きぜん)とした態度で話したように、確固たる信念の持ち主だった。

入社してすぐ取締役に就任した実兄の章一郎氏とは対照的に、「普通のサラリーマンと同じ」ように海外や国内販売の第一線を経験し、取締役に就いたのは45歳。

創業家だからといって特別視されず、企業の階段を一歩ずつ上がってきた自らの経歴に対する自信もあった。

1953年に東大工学部を卒業後、すぐに旧トヨタ自販に入社した。 海外部門から工場長まで幅広い業務を経験した。

【国際派】米ニューヨーク大で経営学修士(MBA)を取得した。海外勤務経験が豊富で英語が堪能。3回にわたって米国販売会社に出向した。米ゼネラル・モーターズ(GM)との合弁工場「NUMMI」(ヌーミー)の初代社長も務めた。 「トヨタきっての国際派」として知られた。日米自動車摩擦の解消に尽力。国際派としての手腕をいかんなく発揮した。

【中国進出】さらに、トヨタの海外戦略の重要課題だった中国進出にも先鞭(せんべん)をつけた。 1994年9月、グループの部品メーカー首脳らを引き連れて自ら中国に乗り込んだ。 李鵬首相(当時)とのトップ会談で中国進出の意向を表明。中国側が世界の有力メーカーに、三社しか現地生産を認めないという厳しい条件を課している状況だったが、乗用車の現地合弁生産をアピールした。 これにより中国での現地生産が実現。欧州メーカーなどに比べて出遅れていた中国市場で事業展開の道を開いた。

【環境対策】環境や安全対策の重要性に早期に目を付けた。とくに1994年に日本自動車工業会会長に就任してからは、リサイクルや排ガス低減などの環境問題に取り組んだ。トヨタのクリーンエネルギー車開発の土台を築いた一人と言われる。

【病気で退任】1995年に突然の病に倒れた。病名は高血圧症。志半ばにして社長の座を去った。社長職は奥田碩(ひろし)氏に譲り、副会長に退いた。1996年に相談役、2014年7月から顧問。

トヨタを世界企業に育て上げた偉大な経営者の故英二氏や章一郎氏らととかく比較する周囲の声に惑わされず、「自分は自分」という意志を貫いた。「負けず嫌いの次男坊」とも呼ばれた。

【会長人事など】豊田章一郎社長(当時67歳)は会長に。豊田英二会長(当時78歳)は取締役相談役に。

【経歴】東京大学工学部機械工学科卒。1953年トヨタ自動車販売(現トヨタ自動車)に入社。1974年取締役。1980年トヨタ自動車工業取締役(同)、1982年トヨタ自動車常務、1986年専務を経て1988年9月から副社長。古屋市東区出身。

【死去】2017年12月30日、肺炎のため死去した。88歳だった。
豊田章一郎
(とよだ・しょういちろう)

喜一郎の長男

豊田章一郎
1982年7月~
1992年9月
57歳で社長就任。

1950年に分離した販売会社「トヨタ自動車販売(トヨタ自販)」の吸収合併(工販合併)を実現し、同時に新会社の社長に就任した。

10年間で国内シェアを3割台から4割強に引き上げた。高収益体質を一層強固にした。

米ゼネラル・モーターズとの合弁会社を設立。英国などでの現地生産も進めた。海外事業の土台を築いた。世界第二位の自動車メーカーの地位を不動のものにした。

さらに労働時間短縮もにらんで九州や北海道への工場分散にも着手した。

【生い立ちから入社まで】トヨタ自動車の創業者・豊田喜一郎の長男として、名古屋で生まれた。

「子供のころは、毎年、蒲郡の海岸に泳ぎに行ったもんだよ。波が穏やかでね、海水がきれいなんだ」と振り返っている。

名古屋大学工学部卒。大学卒業後の数年間、親類が営む北海道・稚内の水産加工会社で、竹輪や蒲鉾(かまぼこ)を焼いていた時期もある。

戦後の大争議直後に父が急死し、27歳で取締役として入社する。

1981年トヨタ自動車販売社長。1982年7月「工業」と「販売」が合併、トヨタ自動車社長。1992年から会長。 経団連会長も務めた。

息子(長男)の豊田章男も社長になった。

【就任中の出来事】
  • トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売が合併(1982年)
  • 米国でGMと合弁会社を設立(1984年)
  • 国内生産累計5000万台達成(1986年)
  • 米国初の単独工場が生産開始(1988年)
豊田英二
(とよだ・えいじ)

佐吉氏のおい。喜一郎のいとこ

豊田英二
1967年10月~
1982年7月
54歳で社長就任。「中興の祖」と称される。

トヨタ自動車の草創期を支え、世界有数の自動車メーカーに育て上げた。戦後の日本のモータリゼーションに重要な役割を果たした。

日本初の本格的な自動車開発や、徹底的に無駄をなくすトヨタ生産方式の確立に取り組んだ。

主力車のクラウン、カローラを開発するなどトヨタの成長をけん引した。

豊田家の「本家」ではなく「分家」の人間だった。 自身は、本家によるトヨタ自動車社長継承を重視していたという。 このため、3人の息子はそれぞれ自動車以外のトヨタグループの有力企業のトップに就任した。

15年間という在任期間は、歴代社長のなかで最長。

本家の章一郎氏の成長を見届けたうえで、社長を譲った。

2013年9月17日、亡くなった。

創業者の豊田喜一郎氏が業績悪化と労働争議の責任をとり、1950年に社長を辞任したのを受けて、トヨタの大番頭と言われた故石田退三社長の下で、経営の立て直しに尽力した。

ものづくりに愚直なトヨタの精神の象徴でもあった。トヨタの強さの源泉となる「現場」にこだわった。生産に携わる社員らがカイゼン(職場改善)のアイデアを出し合う活動は、英二さんが米フォード・モーターへの視察の経験から発案し、現場に根付かせた。

ジャスト・イン・タイムなどで知られる「トヨタ生産方式」を前線で指揮したのは故大野耐一氏だが、英二の後押しがあって定着したと言われる。

1967年から15年間の社長時代は、石油ショックや円高などに見舞われたものの比較的、順風満帆だった。車の命名では、クラウン(王冠)やカローラ(花冠)、コロナ(光冠)など冠にまつわる名前にこだわった。

労働時間の短縮には「働かないと貧乏になるってことだ」と語るなど頑固で保守的な面もあった。

日米自動車摩擦が激化した1980年代、米国での現地生産ではホンダや日産に後れを取った。遅れを解消すべく、米ゼネラル・モーターズ(GM)との合弁会社「NUMMI」の設立を決め、海外生産に踏み出した。 国内では、積年の課題だったトヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売の合併を1982年に決着させた。

晩年には日本の製造業の空洞化を懸念してトヨタグループで「産業技術記念館」(愛知県名古屋市)をつくり、ものづくりの大切さを訴えた。産業技術記念館内にはものづくりの神髄を究めようと「コンポン研究所」を設置。バイオマス燃料やカーボンナノチューブの研究をいち早く始めていた。

【就任中の出来事】
  • 国内販売年間100万台を達成(1969年)
  • ダイハツ工業と業務提携(1967年)
  • 住宅事業に参入(1975年)
  • 輸出累計1000万台達成(1979年)
  • トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売が合併(1982年)
中川不器男
(なかがわ・ふきお)

三井銀行からの派遣(豊田家ではない)

中川不器男
1961年8月~
1967年10月
1921年神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。三井銀行の前身である帝国銀行に入社した。

1950年にトヨタが労働争議で倒産の危機に直面した時、石田退三氏が社長に就任すると同時に、三井銀行(帝国銀行)からトヨタ入りした。専務に就いた。直近の肩書きは、帝国銀行大阪事務所長だった。

「金庫番」として活躍することになった。

そもそもトヨタは、三井グループと関係が深かった。トヨタ初代社長の豊田利三郎は、三井物産の名古屋支店長だった。利三郎はグループ創業者の豊田佐吉と知り合い、佐吉の長女・豊田愛子さん(喜一郎の妹)を紹介された。そして結婚。豊田家に入った。

また、トヨタで「販売の神様」といわれたトヨタ自動車販売の神谷正太郎元社長も三井物産の出身だった。

1967年10月、東京でトヨタ自動車販売の会議に出席した後、名古屋に戻ったときに体の不調を訴えて急逝。

【就任中の出来事】
  • 日野自動車工業と業務提携(1966年)
  • カローラを発売(1966年)
石田退三
(いしだ・たいぞう)

豊田自動織機製作所社長(豊田家ではない。ただし、血縁のない遠い縁戚ではある)

石田退三
1950年7月~
1961年8月
「豊田家の大番頭」と呼ばれた。「中興の祖」でもある。

戦後、経営難に直面、販売の分離と二千人解雇という再建案と引き換えに、創業者が退任。 これを受けてピンチヒッターとして登板した。朝鮮戦争特需と合理化で経営を再建した。

【実績】1959年に日本初の乗用車専門工場の元町工場(愛知県豊田市)が操業を始めた。当時は「クラウン」の月間販売台数が2千台だったのに、生産能力を5千台にするイチかバチかの賭けだった。車の大衆化を見据え、日産自動車の追浜工場(神奈川県横須賀市)よりも2年も先行、今に至る企業力の差を決定づけた。

「無駄金は一銭も使うな」「自分の城は自分で守れ」という号令の下、徹底した合理化と財務改善に取り組み、超優良企業としての基盤を築いた。

【社長就任の経緯】前任者は、創業者の豊田喜一郎。1950年6月、従業員15001人の首切りと引き換えに退任した。

7月18日には臨時株主総会が開催され、豊田自動織機社長だった石田がトヨタ自工の社長を兼務することになった。 61歳だった。 社長就任とほぼ同時に、朝鮮戦争が勃発し、特需が発生した。アメリカ軍が朝鮮半島で物資を調達するためには、一番近い国である日本が便利だった。軍需物資を輸送するトラックも要になった。 商機と見て取った石田は社長に就任する前からアメリカ軍の調達部に出かけて行き、トラック1000台という大口の納入契約を取ってきた。その後も米軍へ売り込み、翌年までにトヨタは約5000台のトラックを納入した。金額にして36億6000万円という大きな商談だった。

【経歴】1888年に生まれた。もともとは沢田という姓だった。義理の従兄弟(いとこ)に引き取られた。この従兄弟は、児玉一造という名前だった。三井物産に勤めていた。後にトヨタ初代社長になる豊田利三郎の実兄である。児玉のおかげで、石田は中学校を卒業することができた。

その後、繊維問屋に勤務。24歳で彦根の石田家に養子に入った。1927年に豊田紡織に入社し、グループ創業者の豊田佐吉の指導のもとで活躍。大阪出張所長などとして実績を重ねた。1941年にトヨタグループの“総本家”である豊田自動織機の常務になった。

【社長になる前の実績】 戦後、GHQ(連合国軍総司令部)との交渉が有名だ。戦後すぐに、退三は倉庫に眠っていた自動織機を輸出して金を稼ごうと発案。GHQ本部に何度も出向き、輸出許可を得た。戦後日本の輸出第一号となった。

【就任中の出来事】
  • トヨタ自動車販売設立(1950年)
  • 国産車クラウン初の対米輸出(1957年)
  • 米国トヨタ自動車販売を設立(同)
  • 乗用車専用の元町工場完成(1959年)
豊田喜一郎
(とよだ・きいちろう)

創業者

豊田喜一郎
1941年1月~
1950年6月
豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)の工場の一角で、1933年に自動車の研究を始めた。豊田自動織機の自動車部が会社のスタートとなった。国産自動車の開発を目指し、全身全霊を捧げた。

1937年にトヨタ自動車工業が設立。佐吉翁から喜一郎が譲り受けた織機特許料100万円がトヨタの創業資金の一部になった。

創業者でありながら、初代社長の座は義理の弟で、年齢的には年上である利三郎に譲った。自分は「開発」に専念するためだ。

社長就任後の1950年にトヨタが経営危機に陥ると従業員1500人の首切りと引き換えに退任した。 労働組合と合意したのは人員整理のほか、従業員の賃金を1割引き下げること。 経営陣がやめる代わりに会社側の主張がすべて通った。 それによって労働争議が終わった。

トヨタの一線を退いた後も、乗用車開発の夢は捨てなかった。持病の高血圧の療養をしながら、東京・赤坂と名古屋・八事の自宅を往来し、ヘリコプターと乗用車の研究にのめり込んでいた。

持病の高血圧に対し「自分の血を片方の手から抜いて、もう一方の手に輸血する療法も試していた」といい、健康管理により気を使うようになったという。しかし、1952年3月、東京で脳出血で倒れた。次第に意識がなくなった。57歳で死去した。

【就任中の出来事】
  • 東京証券取引所などに上場(1949年)
  • トヨタ自動車販売を設立(1950年)
  • 戦後インフレで経営危機に陥る(同)
  • 経営危機で1600人の希望退職者を募集、豊田喜一郎社長辞任(同)
豊田利三郎
(とよだ・りさぶろう)

佐吉氏の女婿、創業者・喜一郎の義弟

豊田利三郎
1937年8月~
1941年1月
初代社長。佐吉の娘婿。

もともとは三井物産の名古屋支店長だった。 トヨタグループ創業者の豊田佐吉氏と知り合い、佐吉氏の長女・豊田愛子さん(喜一郎の妹)と結婚した。 豊田家に入った。

トヨタ自動車の実質的な創業者は喜一郎だった。だが、喜一郎は技術屋であり、開発・生産に専念する必要があった。 そこで、利三郎が社長を引き受けた。

喜一郎よりも愛子の方が年下だった。利三郎は喜一郎の義弟になるが、実年齢は利三郎の方が喜一郎よりも10歳年上だった。 従来の資料では戦前の戸籍法に従って利三郎が当主とされていた。

喜一郎が1952年3月27日、57歳で死去すると、その3か月後、後を追うように1952年6月、利三郎も68歳で他界した。「何が何でも乗用車をやれ」。利三郎は常務だった豊田英二(故人)に病床で遺言を絞り出したという。
豊田佐吉
(とよだ・さきち)

グループ創業者、トヨタグループの祖

豊田佐吉
トヨタグループの始祖。自動織機を発明し、豊田自動織機を創業した。「発明王」としても知られ、教科書にも載った。 遺訓をまとめた「豊田綱領」はトヨタの経営の精神として受け継がれている。



「わしはお国の保護(特許)を受けて織機を発明し、お国のために尽くした。お前は自動車をつくってお国のために尽くせ」。 豊田佐吉が自動車の夢を長男、喜一郎に託したのは1927年だった。 その10年後、喜一郎は日本人の手による自動車産業の確立を目指し、トヨタ自動車工業を設立した。

静岡に生まれ、三河に出た。

【就任中の出来事】
  • 豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)を設立(1926年)
  • 豊田自動織機に自動車部を設置(1933年)
  • トラック発売を開始(1935年)
  • 乗用車の発売を開始(1936年)

豊田家

トヨタ自動車の71年の歴史の中で豊田家は重要な役割を果たしてきた。

トヨタグループの始祖・豊田佐吉は自動織機を発明し、豊田自動織機を創業した。

長男の豊田喜一郎氏は国産自動車の開発を目指し、1933年に豊田自動織機に自動車部を設立。1937年にトヨタ自動車工業を創業した。1950年の経営危機で引責辞任した。

「中興の祖」と称される豊田英二氏は主力車のクラウン、カローラを開発するなどトヨタの成長をけん引し、章一郎氏の成長を見届けて社長を譲った。

豊田章一郎氏は1950年に分離したトヨタ自動車販売との工販合併を実現したほか、米ゼネラル・モーターズとの合弁会社設立など海外事業の土台を築いた。